松坂60億!
信じられないような数字が新聞の紙上に躍る。日本の怪物は選手総年俸の3倍という額の金額を球団に残し、ベースボール発祥の地へと旅立った。
彼が数々の伝説を残した西武ドーム。そのすぐ近く、東村山では昨日それよりも一足早く海外挑戦を実現してきた元高校球児が集っていた。
(東村山スポーツセンターで行われたペルー野球を支援する会の会議にお邪魔してきました。中央が代表の佐藤道輔先生、前列右が二代目指導員の中野俊一さん、その後ろが三代目の川崎基司さん)
「向こうではベースボールではなく、ベイスボールって言うんですよ」
97年3月よりペルーに渡り、そこで一年近く現地の子どもたちに野球を教えていた川崎基司さん。ペルー代表を率いて世界少年野球大会に出場する一方、カオヤという貧民街での普及活動にも力を注いだ
「日本でもそうですけど、野球というのはお金のかかるスポーツなんです。(カオヤでは道具が不足しているため)キャッチボールをするのにも常に後ろに5,6人が並んで待っている状態。世界大会のセレクションを開いても、大会参加のための航空運賃を自分たちでまかなわなくてはいけないという事情があり、定員15人のところ、16人しか集まりませんでした」
金銭的な問題以外での苦労もある。
「向こうでは子どもも大人と対等な感じなんですよね。良い意味でフレンドリー。でも規律という面では日本のほうが優れている。挨拶をしっかりするとか、時間を守るとか、そういうところは日本式で教えるようにしましたね」
そう語ってくれたのは95~96年にかけて、川崎さんと同じくペルーで野球を教えていた中野俊一さん。二人は共に「ペルー野球を支援する会」によって現地に派遣された野球指導員なのだ。中野さんが二代目指導員、川崎さんが三代目に当たる。
もともとペルー野球を支援する会による野球指導員派遣は、現在会の事務局長をしている櫻井国弘さんらが行っていた青年海外協力隊の活動を受け継ぐ形としてスタートした。91年、ペルーの政情悪化を受けて、日本政府は青年海外協力隊員の派遣を中止。しかしその後もペルーでの指導を継続したいという櫻井さんやその恩師である佐藤道輔先生(元東大和高校野球部監督、現ペルー野球を支援する会代表)の情熱により、民間レベルでのコーチ派遣を決意。94年には初代指導員である出川雄一郎さんを派遣。その翌年に支援する会を正式に発足した。
中野さんも川崎さんも指導員として派遣されるまで海外に出た経験は無い。スペイン語も話せない。出発前は当然不安に襲われた。川崎さんにいたってはあのペルー日本大使館公邸事件が未解決の中での渡航だった。そんな危険な場所に隊員を派遣してもいいのか。会のなかでも様々な議論が交わされたという。
それでも彼らは海を渡った。沢山のお金がもらえるわけではない。有名になれるわけでもない。命に関わる事件に巻き込まれる可能性だってあった。
「(支援する会の指導員は)誰一人甲子園に出てませんよ。でもペルーの甲子園に立ったわけだよ」
独特の口調で熱弁をふるうのは佐藤先生。隊員たちが佐藤先生から受けた影響は大きい。東大和高校の教員時代、佐藤先生は教え子の櫻井さんをバックアップすべく、部の機関紙「適時打」でペルーへの野球用品寄贈を全国に呼びかけた。その結果コンテナ二台分の野球用品が全国から集まり、それはペルーの野球少年たちの大きな力となった。
「(国際貢献に必要なものは)よくヒト、モノ、カネっていうじゃない。でもそれらは切り離されたものじゃないんだよね。モノ、カネを現地で受け取るヒトがいなきゃ。そういう意味では高校野球のOBなんかが野球未開発の国に出て行ってくれるというのは大事だと思います」
プロ野球選手よりもはるかに大きなリスクを背負った海外挑戦。知られざる彼らの活躍は、決して小さくは無い足跡をペルー野球に残した。川崎さんと共に世界大会に出場した知念マコト君は留学生として日本に来日。高校の野球部に入り、甲子園を目指した。惜しくも地区予選で敗退したが、オール埼玉のメンバーとしてオーストラリア遠征にも参加している(現在その知念君への取材を調整中ですので乞うご期待)。
稼いだ金の額で人生の成否が語られる今の時代。しかし裸一つでベイスボールの国へ渡ったフロンティアたちの挑戦は、60億にも劣らない価値がある。